北方問題の歴史
2016.11.25(11:36)
いま北方領土と言う場合、国後島、択捉島、歯舞諸島、色丹島のことを指している。「北方四島」と言われるものだが、本来の日本の領土はこの4島だけではない。カムチャツカ半島の南にある阿頼度島(あらいどとう)から根室海峡の北に位置する国後島までの千島列島全体が日本の領土である。歯舞諸島や色丹島はもともと北海道の一部であり、これまた本来日本の領土であることは言うまでもない。
問題は、国後、択捉の2島や得撫島(うるっぷとう)以北の北千島が日本の領土になった経緯である。
日本の歴史的領土は千島列島全体である
もともと千島列島にはアイヌの人々が住み、暮らしていた。1700年代後半には、日本もロシアもこのアイヌの人々と交易関係を結んでおり、その時々に日ロ双方の影響力が強まったり、弱まったりしていた。いずれにしろ日ロ双方とも支配を確立しているという状況にはなかった。ただ、双方が影響力を強めようとするわけなので、当然、争いは絶えなかった。これは樺太でも同様であった。
こうしたなか1853年8月、国境の画定と開国・通商を要請する国書を携えたプチャーチン・ロシア艦隊司令長官が長崎に来航し、江戸幕府とロシアとの条約締結交渉が開始された。その後、数次にわたる交渉を経て1855年2月7日に調印されたのが「日ロ通好条約」である。
この条約では、日ロ間の国境を択捉島と得撫島の間とし、択捉から南は日本領、得撫から北はロシア領ということが確認された。また決着がつかなかった樺太は混住の地とされた。
しかし、当然のことながら明治に入っても樺太での日ロ間の紛争は頻発していた。そこで1875年5月7日に日ロ間で結ばれたのが「千島・樺太交換条約」である。これによって樺太はロシア領、得撫以北の北千島は日本領ということが確定した。これで最終的に日ロ間の国境が画定したわけである。
しかも重要なことは、この国境の画定が、戦争によってではなく平和的な話し合いによってなされたことであった。本来、日本の歴史的領土というのであれば、それは北千島を含む千島列島全体なのである。
ポーツマス条約(1905年)
日露戦争後のポーツマス条約において、日本はロシアから樺太(サハリン)の北緯50度以南の部分を譲り受けました。
第二次世界大戦と領土問題の発生
大西洋憲章(1941年8月)及びカイロ宣言(1943年11月)における領土不拡大の原則
1941年8月、米英両首脳は、第二次世界大戦における連合国側の指導原則ともいうべき大西洋憲章に署名し、戦争によって領土の拡張は求めない方針を明らかにしました(ソ連は同年9月にこの憲章へ参加を表明)。 また、1943年のカイロ宣言は、この憲章の方針を確認しつつ、「暴力及び貪欲により日本国が略取した」地域等から日本は追い出されなければならないと宣言しました。ただし、北方四島がここで言う「日本国が略取した」地域に当たらないことは、歴史的経緯にかんがみても明白です。
ポツダム宣言(1945年8月受諾)
ポツダム宣言は、「暴力及び貪欲により日本国が略取した地域」から日本は追い出されなければならないとした1943年のカイロ宣言の条項は履行されなければならない旨、また、日本の主権が本州、北海道、九州及び四国並びに連合国の決定する諸島に限定される旨規定しています。しかし、当時まだ有効であった日ソ中立条約(注)を無視して1945年8月9日に対日参戦したソ連は、日本のポツダム宣言受諾後も攻撃を続け、同8月28日から9月5日までの間に、北方四島を不法占領しました(なお、これら四島の占領の際、日本軍は抵抗せず、占領は完全に無血で行われました)。
(注)日ソ中立条約(1941年4月)
同条約の有効期限は5年間(1946年4月まで有効)。なお、期間満了の1年前に破棄を通告しなければ5年間自動的に延長されることを規定しており、ソ連は、1945年4月に同条約を延長しない旨通告。
サンフランシスコ平和条約(1951年9月)
日本は、サンフランシスコ平和条約により、ポーツマス条約で獲得した樺太の一部と千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄しました。しかし、そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません。また、ソ連は、サンフランシスコ平和条約には署名しておらず、同条約上の権利を主張することはできません。
発育の良いロシア女性
問題は、国後、択捉の2島や得撫島(うるっぷとう)以北の北千島が日本の領土になった経緯である。
日本の歴史的領土は千島列島全体である
もともと千島列島にはアイヌの人々が住み、暮らしていた。1700年代後半には、日本もロシアもこのアイヌの人々と交易関係を結んでおり、その時々に日ロ双方の影響力が強まったり、弱まったりしていた。いずれにしろ日ロ双方とも支配を確立しているという状況にはなかった。ただ、双方が影響力を強めようとするわけなので、当然、争いは絶えなかった。これは樺太でも同様であった。
こうしたなか1853年8月、国境の画定と開国・通商を要請する国書を携えたプチャーチン・ロシア艦隊司令長官が長崎に来航し、江戸幕府とロシアとの条約締結交渉が開始された。その後、数次にわたる交渉を経て1855年2月7日に調印されたのが「日ロ通好条約」である。
この条約では、日ロ間の国境を択捉島と得撫島の間とし、択捉から南は日本領、得撫から北はロシア領ということが確認された。また決着がつかなかった樺太は混住の地とされた。
しかし、当然のことながら明治に入っても樺太での日ロ間の紛争は頻発していた。そこで1875年5月7日に日ロ間で結ばれたのが「千島・樺太交換条約」である。これによって樺太はロシア領、得撫以北の北千島は日本領ということが確定した。これで最終的に日ロ間の国境が画定したわけである。
しかも重要なことは、この国境の画定が、戦争によってではなく平和的な話し合いによってなされたことであった。本来、日本の歴史的領土というのであれば、それは北千島を含む千島列島全体なのである。
ポーツマス条約(1905年)
日露戦争後のポーツマス条約において、日本はロシアから樺太(サハリン)の北緯50度以南の部分を譲り受けました。
第二次世界大戦と領土問題の発生
大西洋憲章(1941年8月)及びカイロ宣言(1943年11月)における領土不拡大の原則
1941年8月、米英両首脳は、第二次世界大戦における連合国側の指導原則ともいうべき大西洋憲章に署名し、戦争によって領土の拡張は求めない方針を明らかにしました(ソ連は同年9月にこの憲章へ参加を表明)。 また、1943年のカイロ宣言は、この憲章の方針を確認しつつ、「暴力及び貪欲により日本国が略取した」地域等から日本は追い出されなければならないと宣言しました。ただし、北方四島がここで言う「日本国が略取した」地域に当たらないことは、歴史的経緯にかんがみても明白です。
ポツダム宣言(1945年8月受諾)
ポツダム宣言は、「暴力及び貪欲により日本国が略取した地域」から日本は追い出されなければならないとした1943年のカイロ宣言の条項は履行されなければならない旨、また、日本の主権が本州、北海道、九州及び四国並びに連合国の決定する諸島に限定される旨規定しています。しかし、当時まだ有効であった日ソ中立条約(注)を無視して1945年8月9日に対日参戦したソ連は、日本のポツダム宣言受諾後も攻撃を続け、同8月28日から9月5日までの間に、北方四島を不法占領しました(なお、これら四島の占領の際、日本軍は抵抗せず、占領は完全に無血で行われました)。
(注)日ソ中立条約(1941年4月)
同条約の有効期限は5年間(1946年4月まで有効)。なお、期間満了の1年前に破棄を通告しなければ5年間自動的に延長されることを規定しており、ソ連は、1945年4月に同条約を延長しない旨通告。
サンフランシスコ平和条約(1951年9月)
日本は、サンフランシスコ平和条約により、ポーツマス条約で獲得した樺太の一部と千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄しました。しかし、そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません。また、ソ連は、サンフランシスコ平和条約には署名しておらず、同条約上の権利を主張することはできません。
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